雨粒のまま、保存する

日記を書き始めたのはたぶん2019年からだった。今年で3年目になる。日記を書き始めたきっかけや理由を忘れてしまったので、読み返してみようと思う。

2019年4月20日、「今日から毎日日記を書くことにした。」との文章があった。動機は長々と書かれていたが、要約すると「明日から自分がどう生活したいのか、考えようとして、日記を書こうと思った。純度100%自分から出てくるものは、日記しかないと思った。」とのこと。

日記を書いていると、これを日記に書こうと日々ネタを拾い始める。自分で自分を監視しているようで窮屈になってきて、数日日記をやめてみる。

ネタを拾う自分自身から解放されて悠々自適に過ごしていると、ふと、あ、この気持ちを残しておきたいという瞬間が訪れる。雨粒は地面に落ちてほかの雨粒と合流し、境目がなくなって、高いところから低いほうへ流れていく。雨粒を雨粒のまま、保存しておきたい。この瞬間を書いて残しておかなくていいのかという気分になってくる。

このふたつの気持ちに挟まれ、このふたつの気持ちが推進力となり、今まで日記を一週間以上開けることなく続けてこれたように思う。

最近なんだかひとの書いた日記を読みたくなってきて、下北沢にある日記屋 月日に行ってたくさん買ってきた。

にきとーとかわいい。5冊以上買うともらえる。

■『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』滝口悠生

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2018年にアイオワ大学国際創作プログラム(International Writing Program)に参加した著者による日記。
27か国28人の作家が集まり、自作朗読、講義、パネル・ディスカッション等を行う。1976年に開始した老舗プログラムだそう。何十人もの見知らぬ人と同じ空間に放り込まれ、徐々に距離を詰めていく感じが日記からにじみ出ていた。途中からよくつるむ人が固定されてくる感じが学生時代をほうふつとさせた。この本を読んでいる時に映画『アメリカン・スリープオーバー』を見ていたのでそれも影響しているかもしれない。
ただ違う国から集まっているので、自国についてうまく説明できる必要があるなと思った。

タイトルにもあるように、日記といえども日々のすべてを記録できるわけではないので、日記からこぼれおちたものに思いを馳せた。どんな特別な体験も忘れて行ってしまうのかと思うと切ない。

■『養生日記』みなもといずみ
著者が長野県にある宿へ養生に行った時の日記。だいたい私も温泉に行ったときに読書して日記を書いてすこし観光をして、という感じなので、過ごし方が似ていて親近感を覚える。

■労働日記Vol.1 『花屋にて』tomoko
小さい頃に初めて自分の夢として自覚した夢が「お花屋さんになりたい」、だったのを思い出した。花屋は意外と重労働なんだな…と思った。花屋に来るお客さんたちが面白かった。

■『そこで食べたから、わたしでいられる』熊谷充紘
詩的な日記。水で溶かした絵の具と絵の具が重なり合った、その間の部分のような食事と想像の融合。

■『晴れたら庭の木を切って』針山
二児を抱えるシングルマザーの生活が忙しそうすぎてちょっと引くけれど、女7人の同居生活はわちゃわちゃしていて楽しそう。ところどころ意味のわからない固有名詞があり調べた。アモングアス(Among usと表記してほしい、アモン・グアスかと思った)、魚の目、ゴダイゴ。
日記が1ヶ月ごとに区切られている。1ヶ月分の日記をだいたい15分くらいで読み終わる。1ヶ月が過ぎる体感速度はこのくらいだよななどと思う。

売られている日記を読んでいて気付いた。
日記は書いている限り続くが、ある期間で区切ったり、特別な出来事に限定すると日々の記述から全体が浮かび上がってきて面白い。

日記屋 月日で買った日記たちも、「養生日記」、「アイオワ日記」、「労働日記」と内容と期間が区切られている。日記を人に買ってもらうなら、そのほうがいいかもしれない。

日記を公開する前提で書いている人は少ないと思う。
自分に向けて書かれている文章、読者が自分しかいない文章では、自明の単語はわざわざ説明されない。

どんな小説でも映画でも作者の提示するスピードや、読者の拾うスピードに差はあれど、必ず世界観の提示と説明がなされる。日記にはそれがない。
書いている人と読んでいる人との間がばつっと切られる。私はそのばつっが好きだ。そのばつっを感じるためにひとの日記を読んでいるといっても過言ではない。
そのばつっのおかげか、日記は冒頭から読み始めても、ランダムで開いた箇所から読み始めても楽しい。
特にストーリーとかないし。

ヤマシタトモコ作の『違国日記』の一巻に

日記を書いてみるといい。この先誰があなたに何を言って、何を言わなかったのか。道に迷ったときに日記は灯台となる。

という台詞がある。小説家である槙生ちゃんが姪である朝にいう言葉だ。

灯台、とまではいかないかもしれないが、日記が支えになると感じる出来事がこの前あった。

3,4日眠れなくなった。4年前に不眠症になって、そのあと眠れるようになってから、はじめて3日間眠れなかった。
4年前に不眠症になったときは1か月以上眠れなくて、そのつらさを知っているのでプチパニックになった。

あまりにも眠れないのでベッドから這い出し、昔の日記を開いてみた。日記を書き始めたのは2019年、不眠症になったのは2018年だったから、日記は残ってなかったのだけど、2018年に使っていた手帳に眠れるようになった日にやったことが書いてあった。なんとも心強い。

今回眠れなくなったのは前回の時と理由が少し違って、今回はダイエットしていて炭水化物を食べな過ぎて眠れなくなった模様。次の日にたくさんお米を食べたらぐっすり眠れた。
でも気持ち的に全然違う。

『違国日記』の槙生ちゃんがどういう意味で上記の台詞を口にしたのかわからないけれど、たしかにな、と思った。

『違国日記』、とてもおもしろいのでぜひ。

槙生ちゃんはあなたが感じた感情はあなただけのものだ、人との共有はできないというスタンスで、孤独をあんまりさみしいことだとは思っていない。でも槙生ちゃんの周りには笠町くんや、学生時代からの友人、作家仲間など、なんだかんだ人がいる。一方朝は槙生ちゃんの言葉に対して「そんなのさみしい」と思うタイプだが、親を唐突に失い、その境遇も相まって周りの人から距離を取られる。その対比が面白いと思った。
そんな朝を拾う槙生ちゃん。

でもどちらがいいとか悪いとかではなくて、ただそれぞれに、それぞれの地獄があるだけだと思う。

本当は誰とも分かり合えないんじゃないか?という淵を覗き込んだ気がして、ところどころぞっとした。

そろそろタイトルに「日記」とあるものを手あたり次第買う症状が治まりそうだ。最後にシモーヌ・ヴェイユの『工場日記』も読んだけれど、消化に時間がかかっているのでまだ今度書く。

今までの日記帳たち。今は無印の「裏うつりしにくいルーズリーフ」に書いて、ページがなくなったら袋に戻してる笑

何年か経ったら、また日記について書いてみよう。

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